What’s New?  について

[森琴石]のホームページをCD化するに当り、最後のまとめにとりかかりたいと思います。

索引の充実及び画家系図のやり直しと並行し、諸情報のお知らせについては、平成23年12月より[What's New?]からご覧頂きたいと思います。

 [森琴石]の調査を開始してから13年経ちましたが、その過程に於けるさまざまなエピソードや苦労話などを、記録として残す必要があるとのご意見を頂戴しています。
調査情報ではお伝え出来なかった内輪的な事にも少々触れてみたいと思います。

ブログ形式の操作に不慣れな為、画像やイラストの挿入などがまだ出来ません。
徐々に覚えていきますので気長にお付き合い下さい。

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森琴石儒学の師「妻鹿友樵」


『大阪春秋』との出会い

●筆者(森琴石ひ孫、森隆太の妻)が、森琴石の調査を開始した平成10年頃、趣味として切り絵を楽しんでいました。三田市の米谷るり子先生のグループに所属しつつ、大阪の加藤義明先生の教室にも2年ばかり通っていました。
加藤先生は切り絵の世界ではパイオニア的な存在で、「ジャズ奏者」一連の作品からは、強烈なリズムや哀愁を帯びたメロディーが画面から伝わってくる独特の表現力で、切り絵愛好者以外の人々にもかなりのファンがおられたのです。
(※加藤義明氏の切り絵については末尾にお知らせしています)

●『大阪春秋』の表紙に加藤先生の切り絵が多く使われていたという事を知り、大阪に出かけた折には、心斎橋筋にある中尾書店(古書店)に立ち寄り、該当するものがあれば買っていました。

●平成11年の初夏、その中の1冊に妻鹿友樵に結びつくものを見つけたのです。

『大阪春秋 第32号』(昭和57年4月刊)は、表紙が大塩平八郎のもので、特集として<大阪を築いた1000人 続編>が取り上げられていました。
タイトルを見ると興味深そうなものが多く、頁をぱらぱらとめくっていましたら、書物の最後に「賛助会名簿」というものが掲載されていました。

手持ちの他の号では、そのような会員名簿の記載は無かったと記憶しています。

 阪春秋の歴史について=サントリー文化財団のHP内  サントリー地域文化賞 大阪府大阪市 1982年受賞(1999年11月更新) よりご覧下さい 。 

 

『大阪春秋』との縁

●『大阪春秋 第15号、36号』に、 寿太、俳号の 聴香の名で随筆が掲載され、所属する俳句の同人<山茶花>での俳句が掲載されたようで、大阪春秋とは関わりがありました。
本来は義父と書くのが正しいのですが、当HPでは父と書かせて頂いています)

●筆者の実父野村廣太郎は、当時趣味の油絵で<大阪百景>を盛んに描いており、メディアで取り上げられるなどかあり話題となっていたらしく、『大阪春秋』の口絵に5回、随筆1回と度々掲載させて頂いていました。

大阪春秋100号までの目次一覧=http://homepage3.nifty.com/osaka-web-museum/m.htm
 

 名簿で見つけた<妻鹿友一> 様の名

●上のような経緯もあり「どなたか知った方がいらっしゃるかな?」と思いながら会員名を見ていましたら、「メ」項に「妻鹿友一」というお名前を見つけたのです。
森琴石の儒学の師匠が「妻鹿友樵」であるので、一字しか違わないので   「ご子孫に違いない!!」 と確信しました。

●日にちを置き、大阪春秋社に電話をしました。

 「私共が森琴石という明治時代に活躍した画家の子孫である事、森琴石に関する調
   査をしており、数年後に刊行本としてまとめたい」そして「大阪春秋の第32号の末      
    尾にある賛助会会員名簿にある 妻鹿友一氏は森琴石の師匠のご子孫と思われ
 るので、出来れば連絡先を知りたい・・・」等々を延べたところ、その後すぐに連絡を
 頂き、妻鹿様の住所などを教えて頂きました。
 対応して下さったのは「神野茂樹」様という方でした。

その後
神野茂樹様は、その時以来森琴石に興味を持って下さったようで、3年後の平成14年「大阪春秋第103号」(2002年9月刊)に「森琴石記念誌刊行」に関して何か随筆を書いて欲しいとのご依頼を頂いたのです。
随筆には近年中に刊行見込みと書きましたが、『森琴石作品集』が完成したのは、実にその9年3ケ月後の平成2312月中旬で、神野様は退職して既に2年経過されておられました。
 


 
妻鹿家に連絡

平成11年(1999)7月末
神野様からお知らせ頂いた住所電話を元にお電話致しました。
8月3日には手紙をお送りしました。

 「森琴石の子孫で、曽祖父は妻鹿友樵先生の儒学の弟子であった事。数年後に 
 記念誌を出版したい方向で現在色々調べている事。既存の刊行本には無い内容
 のものにしたい、森琴石の真実、全貌を伝えたいので、森琴石に関する資料など
 があれば是非ご協力頂きたい・・・」等々。
神戸市立博物館で開催された「有馬の名宝」展の図録や、既存の森琴石に関する記述のある部分のコピーなどを添えてお送りしました。

●平成11年8月22日、妻鹿友弘様より写真入りの丁寧なお手紙を頂戴しました。
妻鹿友樵の日誌に森琴石の記述がある事、森琴石編著の『題画詩集』が残されている事などが書かれていました。

妻鹿友樵先生の日誌から森琴石の部分を抜粋したもののコピー、題画詩集の写真、ご尊父 妻鹿友一様の著書「妻鹿友樵伝」も一緒に送って下さいました。妻鹿友樵伝の中から、森琴石の伝記の部分をコピーしたものも添えてありました。

●『妻鹿友樵伝』を著された頃、妻鹿友一様は奈良医科大学名誉教授をされておられたそうです。ご子息の妻鹿友弘様は大阪大学理学部の助教授をされておられ、筆者の夫(森琴石ひ孫 森隆太)とは学部は違いますが、友弘様は同じ大阪大学卒で2年先輩という事が分かり、更に親しみを感じました。

●平成11年9月7日、森琴石が妻鹿友樵先生と同じく忍頂寺静村に画を習っていた事から、忍頂寺静村画「月ヶ瀬の図」の写真を送って下さいました。

忍頂寺静村の月ヶ瀬の図は、えも言われぬほど優雅で美しい作品でした。

いつかこの忍頂寺静村の作品類が、皆様方の目に触れるよう切に願うばかりです。

 

妻鹿家を訪問

●平成12年8月末
八尾市の妻鹿家を遂に訪問出する事となりました。

神戸市立博物館の成澤勝嗣先生に同行して頂きました。
大きなお屋敷の広い和室の床の間には、友樵先生の豪快な書軸が掛けられていました。
その他の妻鹿友樵先生の書画を拝見、友樵先生の画はかなりのものだと感じました。
忍頂寺静村先生の画類、友樵先生の七絃琴など用意して下さっていました。
七絃琴の演奏のCDも聞かせて頂きました。
私共夫婦は、曽祖父森琴石が尊敬してやまない師匠妻鹿友樵のご子孫のお宅を訪問出来た事、優れた作品類に見とれた事、宝物(ほうもつ)とも言える重厚な七絃琴を拝見するなど、ただただ感激するばかりでした。

会話も相当弾みましたが、上がっていたのか具体的な内容は余り覚えていません。

尽きぬ話に、夏の長い日もあっという間に夕暮れになってしまいました。
興奮冷めやらぬ状態でお別れを告げ帰路に向かいました。

 ●その後『妻鹿友樵伝』からは、貴重な情報を沢山得る事が出来、調査の広がりを増していく事が出来ました。

以来、妻鹿ご夫妻様からは、私共に対して変わらぬご厚情並びにご協力を頂戴しています。

『森琴石作品集』が完成した折には、ご自分の事のように喜んで下さいました。


★当HP内妻鹿友樵 記述箇所は、トップページ 中央下のグーグル検索機能よりご検索下さい。


加藤義明先生のきり絵に関しては、
白鳥正夫の関西文化考ちちみのブログ をご覧くださ

 

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文化財遺墨の宝庫 月ヶ瀬「騎鶴楼」


月ヶ瀬 について 

 森琴石が、画のテーマとして好んだものの一つに、奈良県の<月ヶ瀬梅渓>がある。

月ヶ瀬は、広域にわたる 渓谷を臨む梅景が、香世界と称され大正11年「国名勝」に指定され保護されました。これは日本で最初の指定だったそうです。1万本を超える梅が見事に咲き誇る頃、桜ほどは鮮やかでは無いが、美しくピンク色に染め上げる梅渓は見る人を桃源郷へと誘うそうです。

 

『雲来詩鈔 巻一』での 月ヶ瀬遊詩 と 騎鶴楼
●明治15年3月13日、森琴石と鑑定家「巌井蘆江 いわいろこう」の二人から、月ヶ瀬に行く事を聞かされた漢詩家の石橋雲来は、急遽その旅に同行させて貰う事となった。その翌日3月 14日から5日間をかけ、汽車や籠を乗り継ぎ、或いは徒歩でと3人は月ヶ瀬へと旅立った。

険しくも又厳しい道のりであったが、名所や旧跡に立ち寄り、奇石怪石を目にし、絶景や奇岸の光景に絶叫をあげるほど感激したという。

3人は折りに触れその情景を詩歌にし、森琴石は目にした光景を詳細にスケッチした。

森琴石はそのスケッチを元に、銅版画や巻物など、月ヶ瀬に因む多くの作品を手がけた。

石橋雲来の自著『雲来詩鈔』は、この明治15年3月での月ヶ瀬紀行「月瀬遊詩」に始まり、明治40年迄、35年間の長きに亘る<交流遊行と詩文を収めた>紀行本である。

●『森琴石作品集 Ⅲ資料編』では、この石橋雲来の「月瀬遊詩 並に記」の漢文紀行文を、多治比郁夫先生が、その旅行の様子をいきいきと読みやすい日本語文にして下さっています。

●月ヶ瀬梅渓での2日目(月ヶ瀬への旅行第4日目)の宿舎が、窪田兵蔵氏の「魁春楼」であった。兵蔵氏は風流を好み、古今名家の書画の収集をし、その多くは梅花に関わるものばかりという。

●月ヶ瀬には当時は宿舎が沢山あったが、月ヶ瀬旅行で最初に泊まった「梅武楼」を含めその殆どが姿を消してしまった。

「魁春楼」は後騎鶴楼にと名を変えたが、現在月ヶ瀬で往時の姿を留めるのは、唯一この江戸末期から続く200年もの歴史を持つ「騎鶴楼」のみとなった。
現在騎鶴楼は宿舎にはしていない。

●平成16年刊の『名家遺墨聚芳』によれば、窪田兵蔵氏のご子孫窪田輝蔵氏は漢文の造詣があり、月ヶ瀬村史の編集にも参画するなど、月ヶ瀬の文化の保護や継承に大変尽力されたそうです。現在のご当主窪田良蔵氏も文化財の保護や研究に励まれ、先代の遺志を良く継がれています。

 ★森琴石HP内「騎鶴楼」記述ヶ所
平成12年3月   http://www.morikinseki.com/chousa/h12.htm
平成17年4月 http://www.morikinseki.com/chousa/h1704.htm  他

 

「騎鶴楼」窪田輝蔵氏 と 森 寿太
●私共の父森 寿太(森琴石孫)は生前、窪田輝蔵氏とは面識、交流があったようだ。父が残した住所録には窪田氏の住所、氏名が書かれている。

●父は昭和50年代に、大阪の西天満にあり、当時身内が経営するギャラリーで、自身の趣味の俳画や水彩画や油絵と共に、森家に残る森琴石の画軸数点及び扇面などを展示したそうだ。

●父の個人的な意思で開催したという事で、当時私共は東京勤務で関西にいなかった事もあり展覧会の事は全く知りませんでした。父が所属する絵画や俳句の仲間の方たちは皆見に来て下さったそうです。
窪田輝蔵氏も来られたらしく、「月瀬真景図」を見入る窪田氏の写真を見た記憶があります。

その折窪田氏が「月瀬真景図」を撮影され、後日その焼き付けたものを送って下さいました。実家の座敷には、額に入れられた写真がずっと飾られていました。

 

「有馬の名宝」 展 ・・・・出品しなかった「月瀬真景図」
●平成10年9月26日~11月7日にかけて、神戸市立博物館で「蘇生と遊興の文化 有馬の名宝」展が開催されました。

●展覧会に先がけた初夏の頃、神戸市立博物館の成澤勝嗣先生が森家に作品の調査などに来られたそうです。

●大阪市立近代美術館建設準備室の橋爪節也先生が森琴石に興味を持ち、以前から書物や資料を収集されておられたそうで、成澤勝嗣先生は橋爪先生を誘われ森家に来られたそうです。
父寿太は平成2年12月に亡くなりましたので、来られたのは既に歿後7年半過ぎていました。

●森琴石の作品類や遺品の管理は父が一人でしていました。
せっかく先生方が来られたのですが、母は余り森琴石については詳しく無く、座敷に掛けられている額や軸、写真や道具類などをご覧頂いたそうです。
肝心の大作らしい作品が一つも無く、先生方、さぞがっかりされた事と想像しています。

 ●「月瀬真景図」は、その2,3年後に実家を整理した時、天袋の奥の方に置かれているのを発見したのでした。

●その後「月瀬真景図」をご覧になった成澤勝嗣先生は、真景図に添えられた衛鋳生や胡鉄梅や王冶梅の題字や跋文をご覧になり、「この画が展覧会に出せていたらなあ!!」と、大変悔しがっておられたのが印象に残っています。
成澤勝嗣先生は、自館に所蔵されている作品や資料類から、森琴石と中国の文人とがかなり親密な関係であった事を既に知っておられたのです。

●因みに父寿太は、その生前中「月瀬真景図」に添えられた揮毫者がさほど重要だとは気づいていなかったようです。

 

 騎鶴楼」への調査
●森琴石の調査を開始したのは、「有馬の名宝」展が開催されてから1ヶ月後の10月末からでした。実家から持ち帰った父の遺品類の中に、先の住所録や窪田氏からの葉書を見ていましたので、「騎鶴楼」窪田様へは殆ど苦労せずに連絡する事が出来ました。
平成11年夏、住所録の電話番号を頼りに連絡をさせて頂きました。

●父寿太と交流があった輝蔵氏は既に他界されておられ、現当主の良蔵様が電話口に出てこられました。

●森琴石の名前は、刊行されたばかりの『香世界懐古』に森琴石の作品が収録されていた事もあり、良くご存知でした。

調査訪問したい旨を伝えました。
「現在騎鶴楼は営んでいませんが、梅が見頃の時期に特別な方のみ観覧して頂いています」 との事でした。

是非訪問させて頂きたいと申し入れたところ、ご快諾頂き、訪問の1ヶ月くらい前に連絡を取り合う約束をし電話を切りました。

●平成11年8月30日
窪田様より 騎鶴楼にある森琴石の作品の写真を送って下さいました。

●平成12年1月1日
毎年森家の墓参(大阪 四天王寺)を行事としていますが、下見を兼ねて月ヶ瀬に行きました。観光協会で見頃をお聞きしたら「2月末~3月初」との事でした。頼山陽ゆかりの地「尾勝山 真福寺」や宮の芝梅林などに立ち寄る。
当時のメモには<梅林多し。想像を超える壮大な景観>と記している。

●平成12年3月9日
私共夫婦、東京の飯田知子さん(森琴石の孫、隆太のいとこ)、神戸市立博物館の成澤勝嗣先生、大阪市立近代美術館建設準備室の橋爪節也先生の5人は、とうとう「騎鶴楼」訪問を実現したのです。

その日は雪が降る寒い日で、しかも歴史ある騎鶴楼の建物は一段と寒く、家の中でも震えていました。
この年は例年より寒かったようで、梅の満開が進まなかったようです。まだつぼみが固い状態だったと記憶しています。

それよりも何よりも、騎鶴楼の筆跡類、森琴石の作品が見たい事のみに気がはやり、寒さも手伝い観梅の方には興味がいかなかったのでした。

騎鶴楼には小部屋が沢山あり、各部屋の襖には全部書画がびっしりと揮毫されており、壁面にもずらりと書画類が掛けられており、それは壮観なものでした。

襖に書かれた森琴石の書は、大変力強いものでした。

窪田良蔵様が画帖類をいっぱい用意して下さっており、それらをすらすらと説明して下さいました。その中には当然森琴石のものも含まれていました。

窪田様はメモも無しに説明されておられましたので、熱心に研鑽されておられる事が良く分かりました。

私共は当時、森琴石調査を始めてまだ日が浅かったものですから、実はそれらの書画類を見ても、落款は読めないし、政治家など、世間に良く知られた人くらいしか名前も知らない方ばかりだったのです。

先生方は、興味のある方々の作品が多いらしく、諸作品を食い入るように眺め、次から次へと頁をめくられてはしきりに写真をぱちぱちと撮られていました。
時々何か気がかりな作品があるらしく、別の部屋へと写真を撮りに行かれていました。

私たち身内3人は、研究者の先生方と一緒に「騎鶴楼」の貴重な文化財に触れさせて頂いた、拝見させて頂いた・・・・というだけで充実感を覚え感激した一日でした。

 「作品類を見る事が出来る!!」という感激の方が強く、調査状況を撮影し、先生方と一緒に記念写真を撮る事など一切念頭には無く、証拠となる写真が無い調査訪問でした。

 以来  ・・・・殆どがそうだったなあ・・・・  と、今ごろ後悔しています。

 

 2度目の「騎鶴楼」訪問
●中国と日本の学術交流を熱心に研究されている陳 捷(ちん しょう)先生が、月ヶ瀬「騎鶴楼」には研究対象となる貴重な資料が豊富であると、兼ねてより調査を希望されておられました。

「騎鶴楼」を最初に訪問した5年後の平成17年3月、私共夫婦は2度目の騎鶴楼訪問を、陳捷先生とさせて頂きました。
その折の概要は、WHAT‘S NEW? 展覧会情報 「中国近代絵画と日本」の中、エピソードで記述していますが、この日も非常に寒い日で、時々雪が吹雪いていたように記憶しています。

 捷先生は、陳曼寿や王冶梅の作品に書かれた落款に気になる情報があるとの事で、別部屋へと行かれ、それらの写真を撮りメモを取られていました。

『学海画夢』の著者依田学海が襖に書を揮毫されているのを、その時初めてしりました。

陳捷先生、学海の文章を興味深く読まれ「奥さんと一緒に来られたみたいですね」と説明して下さいました。

依田学海は遠出の遊行には殆ど愛妾「瑞香」をお供にしていたので、珍しい事だなあと感じていました。

 帰りに窪田様と陳先生が記念写真をと提唱されましたので、調査訪問で初めて記念写真を撮りました。

後日パソコンに取り入れた記念写真の画像、平成21年11月でお詫びしましたが、外付けハードディスクを損失し、画像のデータを失ってしまいました。どうやら我が家は記念写真には縁が無いようです。 

窪田様は私共の2度もの訪問を、温かく又手厚くもてなして下さいました。それは現在もずっと変わらずにお付き合いして下さっています。
本当に有難たく、感謝の気持ちでいっぱいです。

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「中国近代絵画」 解説付総目録

 

『中国近代絵画と日本』展  解説付総目録

●現在国立京都博物館では「中国近代絵画と日本」展が開催されています。
●展覧会の概要は2011年12月20付「中国近代絵画と日本」展でお知らせしました。
●特別展覧会会場には、凡そ200もの作品、資料が展示されています。
●それらの作品資料を展覧会の会場でご覧になれない方には「解説付総目録」で内容や知識を得る事が出来ます。

●展覧会の企画、および目録の編集・執筆は西上実氏と呉 孟晋氏が手がけられました。
●以下、解説付総目録の目次を転載させて頂きます。

下の写真は
 
総目録 第25頁目
   「第一章 筆墨の交歓 清末民国初期の上海と京阪神の文人たち」                                    
  森琴石への為書がある「牡丹蛺蝶図 胡鉄梅・王冶梅筆」の部分図 を使用            
 

 

 

 

 

 

 
 

目次

ごあいさつ
高剣父の山水図に見る折衷主義と日本画影響ー山本春挙との関係を中心に 西上実  8P
中国絵画の近代化と日本ー筆墨と美術の間で                                                       呉 孟晋 12P

図版
第一章 筆墨の交歓ー清末民国初期の上海と京阪神の文人たち                   25P 
第二章 美術による革新ー中国絵画の近代化と日本                 57P
第三章 海派と京派ー上海・北京ニ大都市の画壇とその展開            85P
第四章 油画と国画ー拡がる絵画表現と日本                     189P
余禄   外交官のまなざしー京都国立博物館須磨コレクションについて        225P

王冶梅と森琴石ー近代文人画家と銅版出版事業の関わりについて  西上 実     243P
嶺南画家・方人定の「日本画」ー須磨弥吉郎収集の「後園図」をめぐって   呉 孟晋         253P

作品解説・附参考文献                   262P
参考出版図版              314P
須磨ノート 解題、                                324p
   「現代国画分野展望」
   「斉(王+黄)白石翁」
   「白石をめぐる人々」

   「茫父姚華」、「国画超然派」
   「京滬洋画派」、羊城中間派」
   「蘇仁山」、
「草堂洋画」       
出品目録                  371p 
List of  Works                                   XⅡ
単元概述(中文)             X
Section Discriptions         VⅠ
序(中文)                 V
Preface                  ⅠV  

総ページ数 約400頁
価格     2800円
                         購入ご希望の方ミュージアム・ショップ(便利堂)までおたずねください



森琴石に関するところ

図版   図版15 牡丹蛺蝶図      ・・・胡鉄梅・王冶梅筆 一幅

      図版16 森琴石宛王冶梅書簡・・・王冶梅筆 一巻
      図版17 月瀬真景図      ・・・森琴石筆 一巻

特別論文
      王冶梅と森琴石ー近代文人画家と銅版出版事業の関わりについて  西上 実    
                                    ( 242~252P)

作品解説 「15牡丹蝶図 解説、款識」・「16森琴石宛王冶梅書簡 解説は西上特論にあり、訳文」
       「17月ヶ瀬真景図 解説、款識、題跋1,2,3,4」

参考出品図版
    第一章 筆墨の交歓ー清末民国初期の上海と京阪神の文人たち 
      「墨場必携 題画詩集・・・秩・表紙・部分・目次」(森琴石編著)
      「書画題跋 落款自在・・・秩・表紙・王冶梅題」(行徳玉江編・画=森琴石)
      「皇朝清国 名家画帖・・・王冶梅画・森琴石画」(森琴石編)                              
      

雑感
★中国の近代絵画については、森琴石調査で名前が出る画家についての知識しか持たなかったが、
中国の絵画史でいう近現代(1840年のアヘン戦争以降~1948,9年頃まで)、日中間ではさまざまな形で画家達の交流が展開されていた。今回の展覧会を通じて
新たな知識を得る事が出来ました。
この解説付総目録は、当時の実情を知るには欠かせない一冊になると思います。
この大著とも言える総目録、短期間でしかも西上先生と呉先生のご両人で纏められたと知り更に驚きました。

●「月瀬真景図」の作品解説では、題・跋文から印に至るまで丁寧に読み解いて頂いています。

★特別論文
 「
王冶梅と森琴石ー近代文人画家と銅版出版事業の関わりについて」  について

 10ページもの長文で、主に森琴石と王冶梅との関係について触れています。
 森琴石が中国文人と交わした<筆談>も検証資料として使って頂いています。
 王冶梅が森琴石に宛てた書簡には、王冶梅の<銅版出版事業への関与>を証す貴重な
 情報が込められています。
 明治期での出版史に於いても非常に貴重な情報と思われます。
 王冶梅の手紙文は丁寧に翻刻され、非常に美しい日本語で読み下されています。 
 
ご興味がございましたら是非ご一読頂きたいと思います。

 ●特別論文の筆者
西上実先生によりますと「時間が無かったので 半分も書き切れなかった」との事で
 した。
 ●英文の作品リスト、Kinseki が Rinseki となっていました。

筆談資料について
 和紙(半紙)11枚半分にぎっしりと書き込まれたもので、五言詩や七言詩の漢詩さえ、ろくろく読
 出来ない私共には、
ところどころ読める漢字から内容を推測する程度でした。
 研究者の方々からも、この筆談記録は難解であるとして、長らく解明出来なかったものです。
 中国から来られた陳捷(ちん しょう)先生、次いで今回の論文を書かれた西上先生共々、森家に調査
 に来られた折には、時々「ふむふむ」或いは「ほお~~!!」というような表情を浮べ乍ら すらすらと読
 み進められていました。
 「大変面白かったし、非常に貴重な資料です」・・・・・と
、読後の感想を述べられました。

 これら書簡や筆談の資料、 「やっと活かして頂ける時が来た!!」 と、万感の思いをしています。                                

 

   

 

 

 
 

 

 

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【黄 超曽】は、神戸と横浜の清国領事だった

 【黄 超曽(こう ちょうそ)】とは、神戸と横浜で(清国)の領事を勤めた人物だった事が分かりました。
手元に【黄 超曽】に関する文献資料が幾つかあるので簡単にご紹介します。

 

【黄 超曽】についての文献資料

1:『明治前期日中学術交流の研究』) 陳 捷著 2003年2月28日刊 より

●黄 超曽、字は吟梅、号は金鼇釣徒、蘇州府崇明県の人。
 黎庶昌の随員として来日し、神戸領事館に2年間滞在、その後横浜領事館に転勤した。
  詩文吟詠に優れていた為、日本文人との応酬を引き受けている。
●光緒10年(1884、明治x年)、公使の命で日本各地を遊歴し、各地の日本文人を通して広い範囲   
 にわたる交流を行った。

 在日中の詩作は『東瀛詩草』と題する1冊の詩集に纏められた。   
 

2:『学海画夢』 依田 学海著  明治18年10月刊 より

下編「近水闘詩」―片桐楠斎が主催した詩宴の様子を書いた項目

・・・・・・明治18年4月18日、大阪外国人居留地の近くにある「近水楼」で詩会が開催された。
中国文人には、朱李方(朱印然)、黄超曽(黄吟梅)、衛寿金(衛鋳生)、胡璋(胡鉄梅)らが参加、
日本側からは、主催者の片桐楠斎、仲介役の前田馬山、小川氏、依田学海と愛妾瑞香、小世良八湄、依田学海と愛妾瑞香、服部紫江、森琴石、平井松月等が参加・・・・・・

3:『翰墨因縁』 水越耕南編 明治17年12月15日刊 より

上編の末尾
黄超曽の石牘(書簡、手紙)10函と詩文16首が収められている。
黄超曽の書簡は、壬午(明治15年)8日に始まり、癸未(明治16年)7月「横浜節使を命じられた」と書かれた分で終っている。

 

★上記の文献については
 森琴石HP内、調査情報「
平成16年8月」・「学海画夢、「翰墨因縁を参照下さい
★  森琴石調査では、清国領事には呉澣濤(ご かんとう)との交流が見られます。

呉澣濤(呉翰濤)=「平成17年7月■3番目」「平成18年12月◆南画独学揮毫自在 の揮毫者」に名あり」・雅友・知友「馬渡俊猷」に記述があります。

 

 

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『森琴石作品集』 書評で称賛

『森琴石作品集』 書評で称賛

『美術フォーラム21』 第24号で『森琴石作品集』の書評が掲載されました。
内容を簡単にお伝え致します。

書名・・・・・・『美術フォーラム21』 第24号
          特集:漫画とマンガ、そして芸術(ジャクリーヌ・ベルント 編集)

出版社・・・・醍醐書房(京都)
刊行日・・・・2011年11月30日
該当頁・・・・137・138頁  -書評ー
筆者・・・・・・・佐藤道信氏(東京芸術大学教授)
内容
2頁にわたり『森琴石作品集』の書評が書かれている

挿入写真
  作品集の表紙
  銅板画編より 響泉堂刻挿画「九十七時二十分間 月世界旅行」
  文人画編より 「山水図」(烟霞惟伴冊 より)

●近代大阪の南画家として知られた森琴石がこれほど大量の銅板画を作っていたとは全く知らなかった。南画家森琴石の画家像を一変させるインパクトのある作品集である

●洋画は現実、南画は胸中の理想を描くという真逆の属性、その対極的な画を同時に森琴石は描いており、これは他に類を見ないものであり、美術史的な方程式に当てはめる事が出来ない特異な存在の画家である。

●画集は”熱”を持った内容で、執筆者の意気込み森家の努力や熱ひしひし伝わってくる。

 

詳細はお買い求め又は図書館などでの閲覧、

是非全文をお読み頂きたいと思います。

    

  

筆者略歴
佐藤道信氏
 
秋田県生まれ。1979年東北大学文学部東洋日本美術史専攻卒、81年同大学院修士課程修了、板橋区立美術館学芸員、82年東京国立文化財研究所研究員、94年東京藝術大学美術学部助教授、99年『明治国家と近代美術』でサントリー学芸賞、倫雅美術奨励賞受賞、2007年准教授、09年教授。

著書
<日本美術>誕生 近代日本の「ことば」と戦略 講談社選書メチエ 1996.12
明治国家と近代美術 美の政治学 吉川弘文館 1999.4
美術のアイデンティティー 誰のために、何のために 吉川弘文館 2007.3  

 (フリー百科事典 ウィキペディアより転載)

 

 

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【黄 超曽(吟梅)】・・・見落としていた交流者

【黄 超曽】・・・見落としていた交流者                                   ・・・「月ヶ瀬真景図」に【黄 超曽(吟梅)】が署簽を!!・・・・

●森琴石が明治15年3月、月ヶ瀬に行きスケッチをした。宿舎の「騎鶴楼」の襖に詩文を寄せ、画帖に詩画を揮毫した。画帖の詩文は襖のものと同じ

●11月13日に開催された「農務省 内国絵画共進会」には、そのスケッチを元に描いた「月ヶ瀬真景図」を出品し、褒状を受賞した。

●明治16年、当時森琴石が親密に交際していた「衛 鋳生」「胡 鉄梅」「陳 曼寿」ら、来日中国文人達に「月ヶ瀬真景図」に跋文を揮毫してもらった。

●掛け軸を巻き終えたところに、一部文字が消えた箇所や、名前と思われる消えかかった文字がある。以前から「誰だろう?」と気にしていたが、跋文の揮毫者にばかり気を取られ、こちらの方には注意が全く及ばなかった。

●先日、来年1月7日より国立京都博物館で開催される「中国近代絵画と日本」展に出品される「月ヶ瀬真景図」を引き取りに来られた。その折、同館の 呉 孟晋(くれ もとゆき)研究員に、消えかった名前の部分の読みをお尋ねしたところ「黄 超曽」と読めるとの事でした。黄超曽とは黄吟梅の事である。

●署簽には「癸未」の年号がある事から、明治16年に書かれたものでる事から、跋文と同じ頃に揮毫されたものと思われる。

★「黄 超曽」 資料
1:東瀛游草』 
黄超曽著・光緒11(明18)  
東京都立図書館、実藤文庫[実0012]所蔵

2:『琉球小志並補遺附説略』 
黄超曽著・光緒9(明16)
沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫 所蔵

 メモ
●黄超曽と黄超会とは同人物の可能性あり
∵黄超会 資料
早稲田大学図書館
宮島誠一郎文書目録2156に
「東瀛游草徴東京緒名家題字啓」
(作成:黄超会) の資料があり、
東瀛游草・・・という書名が同じ。

◆上記図書館は、黄超曽(曾)の曾を、會(会)と読み違えられたようです。

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「中国近代絵画と日本」展

中国近代絵画と日本」展

会期:2012年1月7日(土)~2月26日(日)
場所:京都国立博物館・特別展示館

展示作品紹介 (以下京都博物館HPより転載)
中国の近代を中心に活躍した呉昌碩、斉白石、高剣父、徐悲鴻等の絵画作品を、当館が近年受贈した須磨コレクションを中心に展示し、その多彩な展開を追います。西洋の近代物質文明の衝撃は、旧態依然とした中国の社会全体を揺さぶり、変革を促しました。近代画壇における改革のリーダーとなった陳師曾、高剣父、徐悲鴻等は日本との関係が深く、中国絵画の近代化に果たした日本の役割は決して小さくありません。この展覧会をとおして近代における日中文化交流の一面を理解して頂ければ幸いです。

                                                                                                                                                                

第一章
筆墨の交歓:清末民国初期の海上派と京阪神の文人たち
王冶梅(おうやばい)・胡鉄梅(こてつばい)と森琴石(もりきんせき)、呉昌碩と長尾雨山(ながおうざん)・富岡謙蔵(とみおかけんぞう)等の交流を中心に、清末民国の上海に集う海上派(かいじょうは)の書画家たちと日本の京阪神の文人たちとの緊密な関係を扱い、西洋的近代化を迫られる中で、中日の書画壇が互いに影響を与えあった状況を明らかにします。

第二章
美術による革新:中国絵画の近代化と日本
 近代西洋画との邂逅により、「美術」という新たな概念が日本で生まれた後、洋画を取り込んだ新様式として定着した日本の「美術」が、画家の往来や展覧会等により、中国にも波及してゆく状況を、京都の日本画家・竹内栖鳳(たけうちせいほう)や山元春挙(やまもとしゅんきょ)の作品と、広東出身の高剣父、高奇峰(こうきほう)、陳樹人(ちんじゅじん)等の作品を比較し、さらには金城(きんじょう)、陳師曾(ちんしそう)等、中日絵画聨合展の企画に参画した画家たちの作品をとおしてお見せします。

 
第三章
海派と京派:上海・北京二大都市の画壇とその展開
 ここでは、1930年代前後、上海と北京という中国の二大都市において、水墨技法という中国の伝統的な絵画様式を用いる国画(こくが)の中心人物として活躍した呉昌碩と斉白石を採り上げ、その近代性の本質と彼らの国際的な評価の形成の上での日本との深いつながりを探ります。

 
第四章
油画と国画:拡がる絵画表現と日本

第四章では、洋画の日中交流を採り上げます。日本の美術学校に留学して、油彩技法を学んだ陳抱一(ちんほういつ)、日本で個展を開いた劉海粟・王済遠(おうさいえん)、学画の初期に日本に遊んだ徐悲鴻等、当時の中国洋画壇と日本との関係は深く、中国で出版された洋画の歴史や技法に関する教科書も多くは日本の書物からの翻訳引用です。
 劉海粟や、徐悲鴻は洋画ばかりでなく、国画をも得意とし、両方の分野で新風をもたらしました。また戦争をはじめとする現実の世界に素直に眼を向ける写実的な姿勢も中国近代絵画の特色といえます。
             
                      
以上


森琴石に関する展示について                                        多数の中国と日本の著名書画家の作品に混じり、森琴石の作品や資料が、展示される事になりました。
森琴石関係のものは、森琴石が交流した「王冶梅(おう やばい)」との関係を示す作品・資料が主に取り上げられました。

★衛鋳生(清)、胡鉄梅(清)、石橋雲来(日本)、陳曼寿(清)らが跋文を揮毫した森琴石の「月ヶ瀬真景図」
★森琴石への為書(ためがき)のある、王冶梅&胡鉄梅の合作画、
★王冶梅が題字などの揮毫を寄せた森琴石著編『新編 墨場必携題画詩集』、『皇朝清国 名家画帖』、響泉堂刻・森琴石挿画『書画題跋 落款自在』(行徳玉江編)、<王冶梅が森琴石に宛てた手紙>等、計6点展示されます。

覧会の図録の論文中には<王冶梅が森琴石に宛てた手紙>が全文紹介されます。

 

メモ
◆森琴石と中国文人との関係については、国文学研究資料館準教授の「陳 捷(ちん しょう)」氏が、ご自身の豊富な学識や収集資料に基づき、2009年9月『中国──社会と文化』第24号(中国社会文化学会』 で、「1870~80年代における中国書画家の日本遊歴について」と題し、その中で<森琴石と中国文人との交流>について論述されています。
現在、陳氏は、森琴石も含む当時(明治期)の書画家と中国書画家と交わした書簡や筆談を翻訳中、近年中にはそれらを纏め
1冊の学術書として刊行される予定です。 

エピソード                                                                  ◆平成16年夏、東京大学大学院 総合文化研究科の準教授「斎藤希史(さいとう まれし)」先生から森琴石の存在を知ったとして、若き女性の学者「陳 捷(ちん しょう)」先生から森家に問い合わせがありました。                                                        ◆4か月後の平成16年12月には森家に調査訪問に来られました。
翌日には森琴石の作品が多数収蔵されている「神戸市立博物館」への調査に同行致しました。                                                                        
◆それから2年後の7月、胡鉄梅の墓参をした折、神戸華僑歴史博物館から中華街を経て、胡鉄梅とその妻が最後に過ごしたという町、どの辺に住んでいたのかな?と、神戸の花隈街をぐるぐる歩き周りました。                                                                                   ◆翌年の梅の咲く頃、雪の舞う寒い3月のある日、奈良は月ヶ瀬の「騎鶴楼」を訪問、多くの貴重な作品や資料を拝見、その後は資料館を訪問、森琴石の親友「村田香谷」の画を興味深く拝見した事も、今では思い出深いものとなりました。                  

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森 琴石・・・・明治27年頃の足跡か?

場所:愛媛県伊予・「彩浜館」
出典:『伊予市誌』・・・・平成17年・伊予市誌編さん会編
資料ご提供=伊予市教育委員会、沖野新一氏

資料内容 

二、伊予市保管の絵画・工芸品 

「絵画・扁額一五点」

これも彩浜館に保管されている。深田直城、名草逸峯、森琴石、三宅呉暁ら、明治画壇中の新鋭一五画伯が彩浜館に来遊した時に描いたものである。
・・・・・と書かれ、深田直城「雁」、画者名無し「白さぎ」、名草逸峯「牡丹」の3点の画が添えらている。

備考
★彩浜館=明治27年、道後温泉に三層楼の立派な建物が出来た。これに負けじと同年、郡中町の有志により集会所として五色浜に建てらたもの。 木造寄棟造り。
日露戦争時には、松山に収容されたロシア人捕虜将校を接待した。平成元年に改築、現在は伊予市で展示会などの施設として利用されている。

★三宅呉暁=元治元年3月1日生。京都で生まれた。名は守広、通称清三郎。
四条坡の森川曽文に学び、京都私立日本青年絵画共進会の審査員や後素協会の委員となるなど、京都画壇の主要作家として活躍た。内国勧業博覧会や海外の諸博覧会に出品し、文展などで受賞。京都市美術工芸学校で教えた。大正8年8月26日歿。56歳。(byコトバンク他) 

★名草逸峯(逸峰)=文政4年紀伊で生まれた。名は芳太郎。
京都で小田海僊に学ぶ。天下の志士と交わり勤皇譲位を唱えた。
後豊後(大分)に私塾を開き、傍ら医業を学んだ。
明治4年備後加茂郡竹原に本籍を移し、その後広島寺町徳応寺に寓し、絵を教授した。
明治22年(1889)歿、69歳。(by コトバンク他)

★深田直城=文久元年7月14日近江(滋賀)で生まれた。。本名は政孝。別号に秋月。
森川曾文にまなぶ。内国勧業博覧会,全国絵画共進会に「鳴門図」「鮮魚」などを出品。
明治40年正派同志会展審査員となる。
大阪に住み日本美術協会会員、大阪絵画会会員として後進を指導した。
昭和22年死去。87歳。(by コトバンク他) 

メモ
●足跡の年を<明治27年頃>とタイトルで書いたが、その根拠は彩浜館が出来た時、落成式の賓客として地元名士達に招待されたのでは?と、考えたからである。

●森琴石と深田直城とは会派を超えた親交があった。
森琴石は正派同志会の評議員をし、直城の大阪での活動拠点が日本美術協会や大阪絵画会である事など、森琴石とは画家としてのいき方を理解し合った間柄だったようだ

森琴石は、美濃焼き窯元家への染付け指導の後継ぎとして、深田直城にその任を譲った。

●名草逸峯の師匠小田海僊は森琴石の師匠「忍頂寺静村」の師でもある。森琴石は備後竹原には度々訪問している。

●「調査情報:平成16年1月で記述の他、砥部焼きの窯元での足跡があるなど、森琴石は伊予へは度々訪ずれている。森琴石が交わした中国人との筆談にも伊予の地名が出てくる。

問い合わせ
伊予市教育委員会によれば、これらの15点の書画は現在彩浜館にはなく、15点の内2点が他の場所に保管確認されているとの事。

名草逸峯は明治22年に歿している事から、名草逸峯の生存中には彩浜館はまだ存在しない事、他の14名の画家氏名、現在の保管場所など、今回の問い合わせをきっかけに今後調査を進めていきたいとの事でした。

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