森琴石の邸宅が記述: 『曽根崎から大阪市電』

平成26年1月14日 更新
新項目
「森琴石や響泉堂の名が出る書誌」

森琴石HPでは「森琴石紹介:文献抜粋」の項目で、主に<森琴石の伝記>を紹介する文献書誌をご紹介しています。
森家で収集した資料の中には“ほんの数行又はそれ未満”の記述しか無い文献が少なからずあります。それら文献資料名の概要紹介をして参りたいと思います。

第1回目は、去年8月に95歳で亡くなった母米子を悼み『曽根崎から大阪市電』という書物をご紹介します。この1冊本の中に母米子の実家と森琴石の邸宅が偶然にも書かれているのです。
当著は著作権保護期間を満了していませんが、父寿太と鎌田氏の生前の関係から鑑み、勝手ながらもお許し願えるのではと解釈させて頂き、該当する文章や画像・内容にまつわる話を少しご紹介させて頂きたいと思います。
今後不具合が生じました場合には書物の概要紹介のみとさせて頂きます。

『曽根崎から大阪市電』
著者 :鎌田伊太郎
発行者:伊吹紀夫 発行所:文芸図書・学術図書出版 関西書院
刊行年:昭和43年7月
総頁数:226頁
目次数:122

鎌田伊太郎氏略歴 明治21年生、大阪市立曽根崎高小中退、明治45年1月大阪市電気鉄道部車掌見習い、同年2月車掌本務拝命、大正9年監督昇任、昭和20年1月依願退職、昭和39年同人雑誌関西文学の会員となる

表紙          目次
市電車掌の回想記録(表紙)市電車掌の回想記録  目次


 

 

概説
●父寿太が残した書物の中に『曽根崎から大阪市電』という元大阪市電の車掌の回想録がある。
●明治36年から昭和20年の終戦時までの著者の生活記録、随筆的自叙伝として著したものである。
当時の大阪の様子を鎌田氏が抜群の記憶力で書き綴ったこの著書は、出版された昭和43年当時<大阪の貴重な資料>としてかなり話題を呼んだのでは無いかと思われます。
●父寿太が鉛筆でしるしをつけた痕跡があります。その部分を読んでみると、母米子の実家「米村家」や、森琴石が最後に住んだ北区高垣町の居宅の事が書かれていました。
●鎌田氏の回想録は父寿太が育った曽根崎界隈から始まっているので、父寿太が当時を懐古するのには絶好の著書だったに違いありません。父寿太の住所録には鎌田伊太郎氏の氏名がある事から、お互いに連絡を取り合っていたようです。
●鎌田氏は父寿太と同じ曽根崎高等小学校に通学した事、鎌田氏が住んだ豊中市の服部には森家もしばらく住んだ時期がありました。
(森家は昭和30年頃、豊中市の北刀根山から服部へと移り、昭和43年頃は上野東町に住み、その
後曽根東町へと転居した)

下に該当頁の画像及び抜粋文をご紹介します


料理旅館「米村家」

画像がぼやけていますで、クリックしてご覧ください。車掌回想(米村家)

 

                                             梅田歌舞伎座(八)

前文省略
「得意先人力車宿丸源帳場の事を指す)には旅館や料理屋もあった。梅田楼 手合亭 千代の家 米村家等は料理旅館等である。今度米村家に東京役者が数人投宿した
新築出来た歌舞伎座に出演するためである。
この歌舞伎座というのは、現地下鉄西梅田駅を少し南へ行った東側に出来たのである。
杮葺落しには市川団十郎が来た。団十郎の外に市川八百蔵 市川小団次 中村勘五郎 市川染五郎 市川団蔵という顔ぶれである。この外名前は忘れたが鶴村家という女形もいた。
米村家に投宿した役者は楽屋入りするのに丸源帳場の車に乗った。
車体の後ろに自分の紋は描かなかったが、若い衆に成田家とか、鶴村家とか
自分の紋を染め抜いた法被を着せる事にした。若い衆はこの法被を着て威勢
よく楽屋入りをする。
中省略
この歌舞伎座が新築間もなく焼失した。夜間であったが、私は門口に佇み西
の方でものすごい火焔のたちのぼるのを見た。
後文省略

 

北区高垣町「森琴石の邸宅」

画像がぼやけていますで、クリックしてご覧ください車掌回想(森琴石邸宅)

 

            合乗車(十七)

前文省略
集金回りの区域はいまの北大阪の繁華街で、小松原町 角田町
高垣町から中崎町あたり迄で、土一升金一斗目抜きの場所もその頃は、
ところどころ広っぱやどぶ下水があって、
わずかに画家の森琴石や、住友の島村久という人達の広大な邸宅が静に目立っていた。後文省略

★森琴石HP:北区高垣町の記述&掲載写真
平成19年9月【1】注1,2,3 森家庭園
平成19年10月【1】注1
[平成22年 8月】
資料:日誌「孫 森加津の日誌…最後の方森家写真

「米村家」、梅田歌舞伎座について
 森家と平井家との縁
●料理旅館「米村家」=梅田歌舞伎座の役者が宿泊
『曽根崎から大阪市電』では「米村家」に歌舞伎役者が投宿したと書かれているが「歌舞伎座」が梅田にあったという事実は、今では知る人が非常に少ない。
●明治31年2月~32年1月にかけて、歌舞伎座は梅田にあった
●梅田歌舞伎座=明治31年2月開場、翌32年1月火事にて焼失、廃座となる
●明治時代の大阪の歌舞伎座の変遷や役者については
明治演劇史伝 上方篇』(高谷伸著・建設社・昭和19年7月発行)で詳細に書かれている。
●母米子の実家の家業は、大阪西天満で料理旅館「米村屋」を営む。
●米子の父の名は平井菊次郎。
●その後西天満の「米村家」は旅館業を廃し、料理・仕出し「米村家」を大阪高麗橋「三越」に出店した。
●母米子が生まれた大正7年頃には博多にも店を構え、米子の父菊次郎が仕切っていたそうです。
●母米子は博多郊外で生まれ、名前は「米村家」の1字をとり「米子」と名付けられた。
●因みに姉の名は「歌子」だが「歌舞伎座」に由来したかどうかはわからない。
●母米子は娘時代を「浪花のいとさん」として何不自由無く暮らした。
●「米村家」が三越にあった事から、母は大の三越贔屓で、和洋装類は三越で整え、日用雑貨や食品なども三越から取り寄せていました。
●森家と平井家の縁組の経緯について私共は全く知りませんが、本家で薬局を営んだ方と父寿太が大阪外語専門学校(現大阪外大)の独逸語学科での同級生だったそうです。
●森琴石は中村宗一郎と親しく、嵐璃寛の「第7回忌追善俳句集」に関わるなど、歌舞伎役者との交流がみられる。
調査情報平成20年5月http://www.morikinseki.com/chousa/h2005.htm
                                            同6月http://www.morikinseki.com/chousa/h1806.htm    等で記述しています
●「米村家」が歌舞伎役者の常宿だった事などから、森琴石は「米村家」の存在は知っていたに違いない
●森琴石歿後かなりの年数がたってからの寿太と米子の婚姻は、やはり何かの<縁>を感じます。
●父寿太の友人で「薬局」を営んだ本家のご長男は医師で、そのご子息たちは現在も西天満で医院を開業しておられます。

 

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