胡 公寿が森琴石に寄せた書画「石図」について

2015年1月31日 更新

 

「資料紹介‐詩賛1
・・胡 公寿が森琴石に寄せた書画「石図」を追加 の補足説明 

 

胡 公寿作「石図」=「石図」と「漢詩」で構成
明治13年7月、胡公寿が森琴石に寄せた書画
  森琴石旧蔵品
・・・ 劣化.損傷が著しいが貴重な資料
■森家には胡公寿が描いた「石図」が残っています。
■これは森琴石の調査開始から2年目の平成12年夏、森琴石の作品の有無を夫隆太の実家(大阪府豊中市)で探していたところ、2階の天袋の中に「胡鉄梅」の肖像画などと共に見つけ出した作品です。
■他の中国書画家の作品も幾つか含まれていました。
■父(舅)「寿太」が大事にと思い、人目につかないところに置いていたようです。母(姑)米子は全く知らなかったようでした。以後父母と記述します。
■終戦1年少し前に祖父「雄二」が他界したのち、遺品として譲り受けたものらしい。
■亡くなった当時(昭和19年7月)、祖父「雄二」は豊中市新免というところに住んでいた。
現在の豊中市本町という地名で、閑静な住宅街ですが豊中市の中心地となる場所です。

■父寿太が新婚間もない頃で、豊中市の北刀根山(現在大阪大学のあるところ)に住んでいた。その後転居を繰り返し、同じ豊中市内で刀根山⇒服部⇒上野⇒曽根へと4度住所が変わったという。
■父母たちが最後に住んだ住居(曽根)の天袋に置いてあったのを、夫(隆太)らが見つけ出してきました。
■見つけた当時、作品の表面の破損が激しく、裏面は更に破損が酷く裏打ちに使用した「響泉堂刻の書誌と思われる印刷物や森家の何かの”メモ書き”のようなものを貼り付けたものが顕わに見えている状態でした。
■現在は劣化は更に進み、実家から贈られてきた当時の梱包したままの状態で置いていますが、この度森琴石HPに画像を載せたいと久しぶりに開けてみたところ、裏打ちの紙片が「ジグソーパズル」のように崩れ落ちてきました。慌てて破損の少ない「漢詩」部分を撮影しましたので、「石図」をじっくりと鑑賞もせず又封を閉じてしまいました。
■同時に見つかった「胡鉄梅」が描いた「森琴石の肖像画」も表装の破損もかなり激しいものでした。
■森琴石調査開始から約2年経とうとした頃だったので「胡公寿」「胡鉄梅」などの名は、中国の清時代の貴重な文人」として、既に私の頭の中に叩き込まれていた人物であったのです。

 

琴石と中国・上海
・・残る疑問
平成22年10月【1】作品紹介3;天野方壷◆備考 では次のように記述しています。
  *胡公寿は「文献‐明治時代【第五回内国勧業博覧會審査官列傳 前編】」にあるように、森琴石を ・・・「詩書画三絶」と称した。胡公寿は、明治13年新秋(陰暦7月の異称)森家を訪問している。
  森家には、保存状態が非常に悪いが「為栞石先生・・・・」と落款のある”胡公寿の大横額”が残されてい 
  る。後月に、この詩書額をご紹介したいと思います。
■しかし疑問が残ります。
■胡公寿が森琴石の自宅で揮毫したならば「於浪華」「於浪華聴香読画廬」など具体的な地名や場所を書くはずである。
■「石図」の最後には「華亭 胡公寿」と署名しています。
これは「胡公寿が上海で描いたもの」とも考えられるので無いでしょうか?

「石図」:胡 公寿の署名

胡公寿 サイン  胡公寿「石図」 漢詩と「石図」 破損が著しい裏打ち部分
裏打ち
 

■森琴石の旧蔵品には、「平成22年3月」で記述したように「秘蔵の小画帖」があり、ここには胡公寿・斉白石・張子祥・倪旭華・楊伯潤・柳華廬逸史などの、中国文人の書画が揮毫している。
■その他、金冬心の作品や「瞿子冶」の茶器が残されているなど、森琴石と上海との関わりはかなり深いのです。
■「王冶梅」は森琴石に「(上海で書誌を出版したいので、良い銅刻士を紹介して欲しい」と、森琴石に手紙を出しているほどだ。(「資料紹介:書簡 ◆清国人からの書簡 王冶梅」)
■この事柄については森琴石HPトップ頁の右下方に
国立京都博物館 「中国近代絵画と日本」展 図録
 
図録中の特別論文に、西上実氏が<森琴石と王冶梅>の交流等について、10頁分論述 されています。
とあるように、西上実先生が、森琴石に宛てた「王冶梅」の書観について詳しく論述しておられます。

■「平成21年10月【3】」では
「森琴石は実際に中国に行っていたのでは?」と、識者のご見解を記述しました。
私共も森琴石の「謎」として疑問が残ります。

 

 

 

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