「治三郎」は兄では無く、森琴石の弟(異母弟)だった!

2015年8月27日 更新


8月1日更新
「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に! ]
の続きです

 

相変わらず体調が良く無く、パソコンへの文字入力が非常に辛いので
今回も事実のみを簡単にご紹介させて頂きます

 

■前回は
「梶木家から本家に養子に行った阪西治三郎さんの生没年」をお尋ねしたところ
「意外な展開になった」
というところで終わりましたが、

■森琴石の実母の実家、兵庫県宝塚市安倉の旧家、阪西分家の現当主「阪西義隆」氏からご連絡を頂き
“阪神大震災前に写した阪西本家の墓碑の写真がありました。
それによれば
治三郎は<大正13年12月7日没で 享年71才>です」 と教えて下さいました。

■他の写真には

功徳主 阪西治兵衛
彫刻 阪西治三郎 明治24年3月」と書かれたものがあります。

「治三郎さんは彫刻が得意だったみていですね」 ・・・と。

阪西治兵衛は、治三郎の養子先の父で、安倉の村長を務めた安倉のリーダーで「治兵衛」さんと呼ばれ、尊敬されていたそうです。

現在も阪西本家は「治兵衛さん」と呼ばれているそうです。

■後日、阪西本家に確認させて頂いたところ、
「位牌には
・・大正13年(子) 12月7日 71才没 俗名 阪西治三郎
とあります」 と、ご連絡を頂きました。

 

これらから分かった事は

治三郎」は次兄では無く、森琴石の弟だった!
・・治三郎=森琴石より11歳下
・・治三郎は「文字彫刻」が得意だった

 つまり
1:森琴石の兄は「梶木源次郎」のみ
2:次兄は乳幼児期に死亡か?
3:「治三郎」の「三」は、三男を意味した?

●これまで森琴石は、自身の履歴に「梶木源次郎の3男」と書いているので、「治三郎」が次兄で、森琴石が3男だと思いこんでいたようです。
●墓碑や位牌からみると、「治三郎」は、安政元年(1854)生れで、森琴石より11歳(又は10歳)年下だったようだ。
●梶木家の本来の次男は、乳幼児期に亡くなったと推察します。
明治5年戸籍(別名壬申戸籍)は、明治4年 (1871年) の戸籍法に基づいて明治5年2月1日から編成された戸籍で、戸籍が編成された最初の時代を生きた者は戸籍に記載されているが、森琴石の次兄は江戸末期に亡くなっているので、梶木家の戸籍には記載されていないはずです。
●注目されるのは、治三郎が「文字彫刻」が得意だった事です。
印刻が得意だった森琴石、異母弟とは言えど<治三郎>の母は、森琴石の実母の妹であるわけで<得意とするものが共通していた> のです。

 

阪西義隆氏より
「他の阪西分家の方が、家系図を作成されています」と、
その後、詳しい生没年は記載されていませんが、
梶木家と阪西家の家族構成が分かる<系図>をお送り頂きました。

 

・・・・・・・・・・・・・・内容は後日ご紹介させて頂きます

 

 

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