年末のご挨拶(2015年)

2015年12月26日 更新

 

 

 

家族で忘年会

 

 今年も残り僅かとなりました

本年度も森琴石をご支援頂き
有り難うございました

良き新年をお迎えください


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「治三郎」は兄では無く、森琴石の弟(異母弟)だった!

2015年8月27日 更新


8月1日更新
「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に! ]
の続きです

 

相変わらず体調が良く無く、パソコンへの文字入力が非常に辛いので
今回も事実のみを簡単にご紹介させて頂きます

 

■前回は
「梶木家から本家に養子に行った阪西治三郎さんの生没年」をお尋ねしたところ
「意外な展開になった」
というところで終わりましたが、

■森琴石の実母の実家、兵庫県宝塚市安倉の旧家、阪西分家の現当主「阪西義隆」氏からご連絡を頂き
“阪神大震災前に写した阪西本家の墓碑の写真がありました。
それによれば
治三郎は<大正13年12月7日没で 享年71才>です」 と教えて下さいました。

■他の写真には

功徳主 阪西治兵衛
彫刻 阪西治三郎 明治24年3月」と書かれたものがあります。

「治三郎さんは彫刻が得意だったみていですね」 ・・・と。

阪西治兵衛は、治三郎の養子先の父で、安倉の村長を務めた安倉のリーダーで「治兵衛」さんと呼ばれ、尊敬されていたそうです。

現在も阪西本家は「治兵衛さん」と呼ばれているそうです。

■後日、阪西本家に確認させて頂いたところ、
「位牌には
・・大正13年(子) 12月7日 71才没 俗名 阪西治三郎
とあります」 と、ご連絡を頂きました。

 

これらから分かった事は

治三郎」は次兄では無く、森琴石の弟だった!
・・治三郎=森琴石より11歳下
・・治三郎は「文字彫刻」が得意だった

 つまり
1:森琴石の兄は「梶木源次郎」のみ
2:次兄は乳幼児期に死亡か?
3:「治三郎」の「三」は、三男を意味した?

●これまで森琴石は、自身の履歴に「梶木源次郎の3男」と書いているので、「治三郎」が次兄で、森琴石が3男だと思いこんでいたようです。
●墓碑や位牌からみると、「治三郎」は、安政元年(1854)生れで、森琴石より11歳(又は10歳)年下だったようだ。
●梶木家の本来の次男は、乳幼児期に亡くなったと推察します。
明治5年戸籍(別名壬申戸籍)は、明治4年 (1871年) の戸籍法に基づいて明治5年2月1日から編成された戸籍で、戸籍が編成された最初の時代を生きた者は戸籍に記載されているが、森琴石の次兄は江戸末期に亡くなっているので、梶木家の戸籍には記載されていないはずです。
●注目されるのは、治三郎が「文字彫刻」が得意だった事です。
印刻が得意だった森琴石、異母弟とは言えど<治三郎>の母は、森琴石の実母の妹であるわけで<得意とするものが共通していた> のです。

 

阪西義隆氏より
「他の阪西分家の方が、家系図を作成されています」と、
その後、詳しい生没年は記載されていませんが、
梶木家と阪西家の家族構成が分かる<系図>をお送り頂きました。

 

・・・・・・・・・・・・・・内容は後日ご紹介させて頂きます

 

 

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残暑お見舞い申し上げます

2015年8月16日 更新

 

 

残暑厳しい折、
皆様方に置かれましては
いかがお過ごしでしょうか?

暦の上では秋を迎えましたが、
まだまだ厳しい暑さが続きそうです。

皆様方のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

♥平素は森琴石調査に何かとご協力を賜り厚くお礼申しあげます。
当方初夏の頃より体調が芳しく無く、皆様方へのご挨拶も出来ずにおります。
♥なお又、森琴石HPへの取り組みも滞り勝ちになっています。
♥前回(8月1日)更新の「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に! の続きは折を見てご紹介させて頂きます。
♥今後共宜しくご指導及びご教示を賜わり、変わらぬご愛顧を頂きますようお願い申し上げます。

 

 

 

 

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「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に!

2015年8月1日 更新

前回 梶木源次郎(森琴石実父)=阪西家の姉・妹が妻となった に続きます

 

 暑いですが くれぐれもご自愛くださいますようお祈り申しあげます

暑中見舞い 風鈴

 

安倉「阪西家」⁀有馬温泉「梶木家」
・・たび重なる縁戚関係
・・・有馬温泉「御所坊」ともご縁が!

 

阪西家と梶木家、最初の繋がり
・琴石 3歳:弘化3年3月15日、大阪の森猪平(善蔵)の養子となる
・琴石 3歳:〃 5月7日実母没す
・琴石 ?歳:実母の妹、実父梶木源次郎の後妻となる

■私共が現時点で知る限り、安倉の阪西家と有馬の梶木家との繋がりは、実父梶木源次郎の元へ、安倉の阪西家(分家)の娘が嫁いだのが始まりのようである。
■しかし、もっと古い時代から何らかの縁があったかも知れません。!

■6月14日、阪西家を訪問させて頂いた折り、阪西本家からの帰り道、1軒の家を通りかかった時「この家はやはり阪西という苗字で阪西家の分家です。御所坊から梶木家に養子に行った人がおり、その間に出来た子供の一人がこの阪西家と縁を結んだらしい、森琴石の作品もお持ちです。」・・・と、話して下さいました
(後日正確な関係をご紹介出来るかもしれません)

■有馬温泉「御所坊」の現当主の方は 御所坊主人 四郎兵衛ブログ, を公開しておられ
有馬玩具博物館、では 森琴石の『月世界旅行』を紹介して頂いております。

 

尚、有馬海潮音 というブログでは
『森琴石作品集』や、森琴石の実父「梶木源次郎」、実兄「梶木源之助」など梶木家の事を度々ご紹介して下さっています。現在 有馬海潮音 の主催者は誰か不明です。

有馬海潮音 さんのブログ
森琴石
六月六日 芒種 中の坊二代目、梶木源之助と東京向島有馬温泉
中の坊濫觴と初代「梶木源次郎」の事
天保の大飢饉と有馬(2)鍋屋多右衛門

※参考までにご森琴石の銅版画が紹介されている有馬温泉商店主のブログもご覧ください。
『プレてっぽう水』発見!日本初のビン詰めミネラルウォーターは有馬の炭酸水だった !


■森琴石の実家である、有馬温泉「中の坊」では森琴石の事を何一つ取り上げる事が無い(と思われる)だけに、御所の坊さんで取り上げて頂いた事は嬉しい事と思っていました。

■ますます複雑になる阪西家(本家、分家、他の分家)と梶木家、
実母の実家である安倉阪西家(分家)に、より正確な「阪西家と梶木家」との関係をお尋ねしたいと、現当主である阪西義隆 様に連絡させて頂きました。

■電話でお聞きした情報をメモをするのですが、混迷して意味不明な内容になっていきます。

■会話の終わりごろ「梶木家から本家に養子に行った阪西治三郎さんの生没年をご存知でしょうか?」とお尋ねしたところ、「ちょっと調べてみます」と、一旦お電話を切り、その後余り時間が経たない内にお返事を頂きました。

 

 そして  又  意外な展開に!

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく・・・・

 

 

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梶木源次郎(森琴石実父)=阪西家の姉・妹が妻となった

2015年7月20日 更新

 

6月18日更新「森琴石の実母=宝塚市安倉の名家の娘だった!

7月9日更新 森琴石次兄の養子先=宝塚市安倉の大地主だった!     に続きます

 

梶木源次郎(のち源治郎に)
森琴石の実父(森琴石紹介「生家と森家―森琴石実父 梶木源次郎」参照)
・・・・・・・・有馬温泉、炭酸水発見者
・・・・・・・・・・(日本のサイダー、生みの父)
    =有馬温泉「中ノ坊」創始者
     =小学校創設、灌漑土木事業(橋や道路建築)
・・・・・・・・・・有馬温泉物産品興隆に大貢献

 

安倉「阪西家(分家)」
・・姉(森琴石実母)亡きあと、妹が嫁ぐ

■2015年6月14日(日曜日)、阪西分家の大接室に通され、仲介して頂いた田中稔氏が間に立ちお互いに挨拶を交わしました。
●震災後、森琴石のご子孫が私たちを探しておられる事を(どなたからか)聞いていたので、連絡をしたいと思っていたが、方法が分からなかった。
(教育委員会に問い合わせていた事と思われます)

■事前のには下のような下知識を教えられていました。
1:「森琴石の実母」の出生の家である。
1:本家は森琴石次兄の養子先である。
1:他の阪西家も梶木家と縁があり、両家は姻戚関係を結んでいた。

■当日は、以下のように更に深まった内容となりました。
1:安倉は尼崎⇒伊丹⇒有馬 に通ずる街道に位置し、阪西家と梶木家は共に村長として村の指導的な家柄だった。
1:何らかのご縁があり、阪西家の娘が、梶木源治郎(源次郎)に嫁いだ。
1:嫁いだ娘が亡くなった後、妹が妻となった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、 衝撃的な事実を告げられました。

 

              ・・・・次回に続きます・・・・

 

 

 

 

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森琴石実母の生地(安倉 あくら)=聖徳太子ゆかりの地

2015年7月13日 更新

森琴石実母の生地(安倉 あくら)=聖徳太子ゆかりの地


地名の由来
・安鞍とも書く
・聖徳太子が西国巡遊の折、鞍を休めた地
・難波吉士(なにわの きし )胡床(あくら)の居住地か

前回前々回 では<森琴石の実母の生地>及び<森琴石次兄の養子先>は宝塚市安倉の旧家とご紹介しましたが、安倉(あくら)という地名は歴史的な由来があります。

●『宝塚の風土記 民話と伝説・地名の起こり』
・・・・(川端道治著/川瀬書店/昭和52年8月15日初版)

第246頁に
のような見出しがあります。

(四)大字・安倉(聖徳太子の所縁の地・難波吉士きし胡床あくらの居住地か)

●上記著書の内容を著作権上ご紹介出来ませんので、安倉(あくら)の地名の由来について似た情報がインターネットで紹介されていますので下にご紹介させて頂きます。
●難波吉士きし胡床あくらについては、説明が難しいので「難波吉士」という単語についてのみご紹介させて頂きます。

 ・

安倉(あくら)   について

1:『摂津名所図会』 巻の六 より
河辺郡
安倉(あぐら)
池島・鳥島・出在家等安倉庄と云ふ。
伝へ云ふ、聖徳太子中山寺草創の時、根をと驪どめ、鞍を安ずる義によって安鞍と号す。今土俗安倉と書す。

2:兵庫県県民運動情報誌「ネットワーク」 より
第99号 阪神北<活動紹介>

安倉の地は、古来、伊丹と小浜を結ぶ街道筋沿いに形成され、農業を中心に発展してきた」と「コミュニティ安倉」のホームページや冊子 などの紹介にあります。
全国的に見ても貴重な高塚古墳や、聖徳太子ゆかりの大蓮寺や南中山寺・文殊院そして住吉神社など歴史的名所も多く(以下省略)・・・・・・。

3:宝塚歴史散歩 より

安倉は、中国自動車道宝塚インターの南に位置し、伊丹市に隣接する東西1キロ、南北2キロの地域です。 伝承によると聖徳太子がこの地域を訪れたとき、黒駒(黒い毛並みの馬)の鞍(くら)をはずして休んだことから「安鞍」とされ、それが転じて地名が安倉になったと伝えられています。
この付近は縄文時代の石鏃(せきぞく)(やじり)が出土、古墳時代前期(4世紀後半)の安倉高塚古墳が発掘されたことから、古くから開かれた土地であったことがうかがえます。

4:任意団体エコグループ・武庫川 より

第89回  武庫川エコハイク(2014.9.13 )
馬街道・清荒神から伊丹昆陽までを歩く 

安倉 安倉(あくら)は安鞍といわれ、聖徳太子が仏教興隆のためこの地を馬に乗り回られた折、乗馬が足を止め動かなくなりそこから金鶏が飛び立ったという。
太子はここを霊所として馬の鞍を休められたという。
この場所に鶏塚を置き一寺を興されたという。

 

 ・

難波吉士(なにわの きし)   について

1:デジタル版 日本人名辞典 より
吉士雄成 きしの-おなり
飛鳥時代の遣隋使。推古天皇16年(608年)、小野妹子(おののいもこ)の帰国に同行してきた隋の使者 裴世清(はい-せいせい)らを筑紫にむかえる。

同年隋使をおくるため遣隋小使として大使妹子とともに渡海した。
氏は難波(なにわの)吉士とも。

2:アドレスのみのサイト より
難波吉士一族  誠に不思議な氏族である。
吉士とは朝鮮系の称であって、氏としても姓としても用いられている。従って、朝鮮渡来氏族であることはほぼ間違いない。
姓氏録の摂津皇別にも「吉志、難波忌寸同祖、大彦命之後也」とある。

難波に本拠を持ち、朝鮮外交を一手に引き受けた氏族である。

 

 

 

 

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森琴石次兄の養子先=宝塚市安倉の大地主だった!

2015年7月9日 更新

 

6月18日更新の「森琴石の実母=宝塚市安倉の名家の娘だった」 に続きます

●阪西家訪問より1カ月経ってしまいました。
●その間体調不良や身内の葬儀等が重なりました。
●森琴石の実母の生地等については、順を追ってご紹介して行きたいと思います。

2015年6月12
兵庫県宝塚市
・・阪西家(分家)訪問

■6月14日(日曜日)、2日前に約束を交わした阪西家訪問の当日となりました。
■思いもよらぬ展開に、私共夫婦は興奮を抑えきれませんでした。
■当日阪西家分家では、阪西義隆・節子ご夫妻、阪西家本家の奥様、仲介して頂いた田中稔氏が、私共夫婦を歓待してお迎えして下さいました。
■阪西家(分家)は、江戸末期の頃本家より分家したそうですが、分家も又庄屋職を務めておられたのだそうです。
■本家、分家共、川辺郡安倉村(現宝塚市安倉)の由緒あるお家柄なのです。
■阪西家分家ご紹介に先んじて「阪西家本家」の事を触れておく必要があります。

 

阪西家 本家=宝塚市安倉の旧家
・・・・・・・・・・・  =代々庄屋職
・・・・・・・・・・・  =安倉の大地主
・・・・・・・・・・・  森琴石次兄「梶木治三郎」の養子先
・・・・・・・・・・・・・

■当日阪西家では本家の奥様もご一緒にお迎えして下さいました。
■阪西本家は、川辺郡安倉村での中心的な存在で、代々庄屋職を務め、現在に至るまで地域の大地主として地域経営に貢献されておられます。
■森琴石紹介「生家と森家―森琴石実父 梶木源次郎」の後方
<梶木家略系譜:梶木源次郎の次男>として
【(源次郎二男)治三郎=川辺郡安倉(現宝塚市)の※庄屋家の養子となる】
ご紹介しています。
■この情報は、森琴石調査開始当時、現有馬グランドホテル代表取締役社長梶木雅夫氏との会話(電話)を書き留めていたものです。
■その後、宝塚市教育委員会に問い合わせ、宝塚市に於ける「阪西治三郎氏の存在」をお尋ねしたところ
「宝塚市史に庄屋をしていたという記録があります」と、返答を頂きましたので、森琴石HPに記述した次第です。
■当時から10数年経った現在、森琴石の<次兄の養子先>の方にお会い出来た事実に改めて感激感謝しています。

 

・・・つづく・・・

 

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少しお休みさせて頂きます

2015年6月29日 更新

前回ご紹介しました宝塚市の旧家阪西家訪問時、少々風邪気味でしたが、
その後本格的に風邪を引いてしまいました。
つい最近身内の不幸もあり、現在森琴石調査及び森琴石HPに本腰を入れる事が出来ません。
心身共に回復するまで、今しばらくお休みさせて頂きたいと存じます。

 

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森琴石の実母=宝塚市安倉の名家の娘だった!

2015年6月18日 更新

 

‘‘トピックス‘‘
・・ついに判明!! 
・・・森琴石の実母……宝塚市安倉(南)の旧家の生まれ

■「智願妙重大姉」という法号以外の情報は皆無という、森琴石の実母の実態が判明しました。
■森琴石の調査開始後間もない頃、森琴石の生家「有馬温泉 グランドホテル」の梶木雅夫氏及び当時の女将「しげ」様にお会いし、森琴石の生母の事をお尋ねし「葬儀禄など何か古い書きものは残っていませんか?」とお尋ねましたが「何も分からないし、ホテルを建築する折古いものは棄却しました」とおっしゃったのでした。
■後日梶木雅夫氏からFAXで過去帳の写しを送って下さいました。
■写しには森家の過去帳と同じ{法号}の方があり、没年月日も同じだったので「智願妙重大姉」が森琴石の実母の法号である事、梶木家の過去帳にもきちんと記録されている事が分かり少し安心したのでした。
■今回思わぬ事から、森琴石の実母の事が判明致しました。
■今回より何回かに分けてご紹介して参りますが、
森琴石の実母の生家は宝塚市安倉(南町)の名家で、現在の当主阪西義隆氏は歴史ある旧家を守られ、同家に残る古い文書は「阪西家文書」として宝塚市史編集資料目録に収録されています。

 

宝塚市安倉南町は

近所に 安倉高塚古墳(あくら たかつかこふん)があります。

安倉高塚古墳=塚市安倉南二丁目に所在する古墳時代前期の円墳.日本に数例しかなく古代史解明のうえで貴重な、呉(中国)の時代の年号入りの銅鏡が発見されたことで知られる。(by 続倭人伝、宝塚の歴史を知る 等)

 

阪西家ご紹介の前に
阪西家訪問への経緯

■森琴石の実母の生家である、阪西家(分家)について記述するに当たり、阪西家にたどるまでの経緯をご紹介したいと思います。
■阪西家にたどる迄の過程には、何人かの方のご協力を頂いたこその結果なので、それらの方々をご紹介する必要があるかと思います。
■what’s new「お世話になった方々」として記述しないといけないのですが、年齢の所為か、数々の資料を広げ、又過去の記憶をたどって書く作業が最近富みに億劫になり、ずるずると先延ばしになっていたのです。
■文章が下手なので経緯がうまく伝わるかどうか自信がありませんが、森琴石調査の記録として残しておきたいので我慢の程お願い致します。

 

森琴石門弟田川春荘が取り持つ縁

神戸史学会 大国正美氏
・・・・・・・・・・・・・・・
 安倉の有力者 田中稔氏                     田中稔氏            ・・・・・・・・・・・・・・・↓                         ↓

森琴石門弟田川春荘のご子孫 共に安倉村村長として知己の間柄   阪西家(本家)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春荘と阪西治三郎(森琴石の次兄)の時代

ご協力者の紹介
大国正美氏
当時、神戸新聞社勤務の傍ら伊丹資料修史等専門委員長・神戸深江生活文化史料館副館長・『歴史と神戸』編集長を兼任。現在は「神戸新聞社企画総務局長」としてご活躍されておられます。

田中稔氏
地域コミュニティの指導者、田川介近氏(田川春荘ご子孫)と同級生。阪西義隆氏と知己の間柄。

門弟田川春荘の画が『地域研究 いたみ 28号』に掲載
■森琴石HP調査情報[平成16年11月]では、田川春荘のお宅を訪問させて頂いた事を簡単にご紹介しています。
■関連資料:【田川春荘画の「孔子像」と地域社会】(文=大国正美/平成11年3月) では 森琴石の門弟「田川春荘」が伊丹市の稲野小学校に「孔子子弟薫陶図」を寄贈していた事を記述しています。
■門弟の田川春荘の資料を探していたところ、「地域研究 いたみ 28号」(伊丹市立博物館/平成11年3月)に、大国正美氏の論文が掲載されている事を知りました。
■資料の発行者である、伊丹市立博物館にご連絡し、同氏の論文が掲載されている書誌の入手方法を問い合わせ、その後我が家に送って頂いたと記憶しています。
・・

神戸史学会『歴史と神戸』と大国正美氏
■論文の筆者「大国正美」氏は、当時伊丹資料修史等専門委員長・神戸深江生活文化史料館副館長としてご活躍されていましたので、該当機関にお電話したところ、大国先生は神戸新聞社に勤務されている事、「歴史と神戸」の編集長も兼ねておられる事を知らされました。
★「歴史と神戸」(神戸史学会)は、神戸の歴史を研究する由緒ある研究誌として知られています。

■当時私は「胡鉄梅と中野雪江(該当箇所の資料は既得)」・「ポンぺと中野雪江」など、中野雪江と胡鉄梅の資料が欲しくて、神戸史学会には何度か連絡を致しました。
■「歴史と神戸」は、神戸市灘区の田中印刷株式会社に事務所があり、編集局の方々は隔日の夕方にご出勤されるとかで、何回目かでやっと連絡がついたのでした。
■私共は「森琴石=有馬温泉中の坊梶木源次郎の3男 の、ひ孫の嫁」である事、「該当書誌を入手したい」との用件をお伝えしたところ、
後日「1冊在庫がありますのでお譲り致します」
との回答を頂き、ついに念願の「ポンぺと中野雪江」の資料を入手する事が出来たのです。そして<森琴石HP>に文章を掲載する許可も頂いたのです。

■お電話の対応をして下さった方が「もしよければ いつか森琴石と有馬温泉の事を是非書いて下さい」と言って下さった事もありました。
■大国正美先生とはその後、神戸の儒学者堀 春譚(ほりしゅんたん)のご子孫「堀 浩雄」氏のお宅に、「堀 春譚」の蔵書類拝見のご同行をして頂きました。⇒平成17年9月に記述

■7,8年前の事ですが大国先生から「森琴石と周辺の文人」というようなタイトルで「歴史と神戸への執筆をお願いします」と言って下さった事もありました。
■当時はまだ自信も無かったのですが、今回の<安倉阪西家と森琴石、有馬温泉との関わり>は、神戸の歴史として一文にするに値する情報では無いかと思えてきました。



大国正美氏 ⇒田中稔氏 ⇒田川春荘ご子孫 への経緯

■私は大国先生の勤務先である神戸新聞社にお電話したように思います。
「田川春荘のご子孫に是非お目にかかりたいのですが、どのようにしたら可能でしょうか?」とお尋ねしました。
■大国先生は「私も地域の有力者の方に間を取り持って頂きましたので、その方にお願いして頂いたら如何でしょうか?」と、アドバイスを頂きました。
■その後、地域のコミュニティの指導者として活躍されている「田中稔」氏に連絡し、
「田川春荘のご子孫の元をご訪問させて頂きたい」旨を述べ、その後田中氏のご尽力により、田川介近(よりちか)様のお宅への訪問が実現出来たといういきさつがありました。
■5,6年前の事、「以前訪問した際、門弟たちが寄せ画した非常に大きな2曲屏風を拝見しましたが、門弟たちの画を拝見するのに夢中で写真を撮り損なっていました。出来れば再度拝見させて頂きたい」
と、田中稔氏にお伝えしたところ、
「田川氏の健康状態が非常に悪く施設に入所中で、奥様もかなり具合が悪いそうです」
というご報告を頂き、残念ながら再度の訪問は実現出来ませんでした。
■その後も田中氏とは時折ご連絡させて頂いていましたが、この度「田川介近氏はとうとうご逝去なさいました」との残念な報告も頂きました。
■田川介近ご夫妻様は、私共を「田川春荘」の師匠の子孫として、丁寧にお迎えして下さいました。今から10年6カ月前の事が懐かしく思いだされます。
・・・・・・・・田川介近様のご冥福を心よりお祈り申しあげます・・・・・・・

阪西家訪問に向けて
阪西義隆氏‐知己の間柄‐田中稔氏
両者
歓談中:話題に森琴石が・・・・

■兼ねて知己の間柄だった両氏との事ですが、6月11日(木)の午前中、所用で阪西義隆氏を訪問され、その歓談中に「森 琴石」が話題となったのだそうです。
■「森琴石なら良く知っている。田川さん(春荘のご子孫)の仲立ちをした事がある」など等、話が弾み、義隆氏ご所蔵の森琴石の掛け軸をご覧になったそうです。

 

田中稔氏 ⇒ 我が家
我が家 ⇒ 阪西義隆氏
・・3日後、阪西家訪問

■その後、ご自宅に帰られた田中氏から、我が家に電話をかけてこられました。
「今 知り合いの阪西さんというお宅に行っていました。
阪西家は森琴石や有馬温泉の「中の坊」とは非常に所縁のある旧家で、中の坊から養子に来た人や、中の坊に嫁いだ人がおり、阪西家から嫁いでいった方の中にも森琴石の作品を所持している人がいるそうですよ。良ければ早速阪西さんに連絡して会われてみては如何ですか?」と、
電話越しから田中氏のはずむ声が聞こえて参りました。

■その日の内に夫隆太が阪西家にご連絡させて頂き、訪問及び作品を拝見させて頂きたい旨を告げました。

■早速、翌日阪西家より「2日後の14日は如何でしょうか?」とのご提案を頂き、実にあっというまに 森琴石や 有馬温泉 ”中の坊”ゆかりの  旧家訪問 と相成った次第です。

 

その後 驚く事実が・・・

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・次回より順次ご紹介致します

 

 

 

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森琴石は「奈良博覧会」等、各種展覧会の審査委員を多数務めていた

2015年6月10日 更新

 

前回 新情報あり:明治28年頃の「褒賞」    の続きです

■我が家では、家族の行事、家族が所属する趣味の会での行事が重なり、私的な用事も多く、落ち着いてHPに取り組も事が出来ていません。
■今回は簡単な情報とその資料の一部を画像で紹介させて頂きます。

 

明治33年「パリ万国博覧会」出品作
「嵐山夏雨図」の解説書

・・・森琴石は「奈良博覧会」等、
・・・・・・・
各種展覧会の審査委員を多数務めていた

■前回、森琴石の下書き帳より「明治15年~明治28年の褒賞」をご紹介しました。

■次回HPに追加するため下書き帳を繰って見たところ、「嵐山夏雨図」という「パリ万国博覧会」に提出した作品の解説書に添えた<履歴>の下書きのようなものがありました。

■明治32年11月15日の日付けで書かれており、前回の「褒賞」より更に詳しい履歴の内容となっています。

■前回の「褒賞」では、各種展覧会に出展し、受賞した褒賞の種類が書かれていましたが、「嵐山夏雨図の解説書」の履歴には、<展覧会に出品した作品が受賞した>だけでなく、展覧会の審査委員も務めたと書かれています。(※但し下書き帳には履歴の文字は無く、これまでの経緯で履歴とみなしました)

■履歴に続き、4頁分に亘り褒賞が記述されている。(※但し下書き帳には褒賞の文字は無く、これまでの経緯で褒賞とみなしました)

■以下、<解説書の履歴>の画像をご紹介します。

 

左頁
(下書き帳49頁)
「嵐山夏雨図」の解説書より
履歴
解説書 1

 


履歴
(下書き帳50、51頁)
赤線=展覧会の名称と審査委員の記述か所
明治18年5月:奈良博覧会絵画部審査員

明治23年8月:全国絵画共進会審査員
明治26年2月15日:日本美術協会大阪支会第1回展覧会絵画部審査員
明治30年4月:京都市後素協会開設の全国絵画共進会審査員
明治32年4月:愛知県名古屋全国絵画共進会審査員

解説書 2

 

 

 

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