熊本大地震のお見舞い

2016年4月20日 更新

 

 2016年4月14日より熊本地方を震源地として

相次いで発生している一連の地震で被害を受けられ、

避難生活を余儀なくされている皆様に心よりお見舞い申し上げます。

皆さまの安全と一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

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森琴石属 「胡鉄梅・王冶梅 牡丹蛺蝶図」:2月8日 日経朝刊に掲載

 

2016年2月4日 更新

 

日経連載: 日中画人往来十選(9)に

「胡鉄梅・王冶梅 牡丹蛺蝶図」が掲載されました

・・・森琴石の為に「胡鉄梅・王冶梅」が合作した絵画

 

 ・

   呉 孟晋(くれ もとゆき)先生の切り口が興味深いので 是非ご覧ください

   ・
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日中画人往来十選(9)

日本経済新聞社

朝刊

文化

●タイトル「中画人往来十選」
●全10
回連載(
掲載開始日 2016125日)
●掲載日
2月8日(月曜日)
 第9回目
 胡鉄梅・王冶梅「牡丹蛺蝶図」

 日経 呉孟晋先生文章

 

●執筆者=呉孟晋氏(京都国立博物館 主任研究員)

 呉孟晋(くれ もとゆき)氏の業績
・・・・・国立京都博物館研究者紹介:呉孟晋
・・・・・・http://www.kyohaku.go.jp/jp/gaiyou/research/t-kure.htmlをご覧ください

 

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年末のご挨拶(2015年)

2015年12月26日 更新

 

 

 

家族で忘年会

 

 今年も残り僅かとなりました

本年度も森琴石をご支援頂き
有り難うございました

良き新年をお迎えください


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「治三郎」は兄では無く、森琴石の弟(異母弟)だった!

2015年8月27日 更新


8月1日更新
「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に! ]
の続きです

 

相変わらず体調が良く無く、パソコンへの文字入力が非常に辛いので
今回も事実のみを簡単にご紹介させて頂きます

 

■前回は
「梶木家から本家に養子に行った阪西治三郎さんの生没年」をお尋ねしたところ
「意外な展開になった」
というところで終わりましたが、

■森琴石の実母の実家、兵庫県宝塚市安倉の旧家、阪西分家の現当主「阪西義隆」氏からご連絡を頂き
“阪神大震災前に写した阪西本家の墓碑の写真がありました。
それによれば
治三郎は<大正13年12月7日没で 享年71才>です」 と教えて下さいました。

■他の写真には

功徳主 阪西治兵衛
彫刻 阪西治三郎 明治24年3月」と書かれたものがあります。

「治三郎さんは彫刻が得意だったみていですね」 ・・・と。

阪西治兵衛は、治三郎の養子先の父で、安倉の村長を務めた安倉のリーダーで「治兵衛」さんと呼ばれ、尊敬されていたそうです。

現在も阪西本家は「治兵衛さん」と呼ばれているそうです。

■後日、阪西本家に確認させて頂いたところ、
「位牌には
・・大正13年(子) 12月7日 71才没 俗名 阪西治三郎
とあります」 と、ご連絡を頂きました。

 

これらから分かった事は

治三郎」は次兄では無く、森琴石の弟だった!
・・治三郎=森琴石より11歳下
・・治三郎は「文字彫刻」が得意だった

 つまり
1:森琴石の兄は「梶木源次郎」のみ
2:次兄は乳幼児期に死亡か?
3:「治三郎」の「三」は、三男を意味した?

●これまで森琴石は、自身の履歴に「梶木源次郎の3男」と書いているので、「治三郎」が次兄で、森琴石が3男だと思いこんでいたようです。
●墓碑や位牌からみると、「治三郎」は、安政元年(1854)生れで、森琴石より11歳(又は10歳)年下だったようだ。
●梶木家の本来の次男は、乳幼児期に亡くなったと推察します。
明治5年戸籍(別名壬申戸籍)は、明治4年 (1871年) の戸籍法に基づいて明治5年2月1日から編成された戸籍で、戸籍が編成された最初の時代を生きた者は戸籍に記載されているが、森琴石の次兄は江戸末期に亡くなっているので、梶木家の戸籍には記載されていないはずです。
●注目されるのは、治三郎が「文字彫刻」が得意だった事です。
印刻が得意だった森琴石、異母弟とは言えど<治三郎>の母は、森琴石の実母の妹であるわけで<得意とするものが共通していた> のです。

 

阪西義隆氏より
「他の阪西分家の方が、家系図を作成されています」と、
その後、詳しい生没年は記載されていませんが、
梶木家と阪西家の家族構成が分かる<系図>をお送り頂きました。

 

・・・・・・・・・・・・・・内容は後日ご紹介させて頂きます

 

 

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残暑お見舞い申し上げます

2015年8月16日 更新

 

 

残暑厳しい折、
皆様方に置かれましては
いかがお過ごしでしょうか?

暦の上では秋を迎えましたが、
まだまだ厳しい暑さが続きそうです。

皆様方のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

 

 

 

♥平素は森琴石調査に何かとご協力を賜り厚くお礼申しあげます。
当方初夏の頃より体調が芳しく無く、皆様方へのご挨拶も出来ずにおります。
♥なお又、森琴石HPへの取り組みも滞り勝ちになっています。
♥前回(8月1日)更新の「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に! の続きは折を見てご紹介させて頂きます。
♥今後共宜しくご指導及びご教示を賜わり、変わらぬご愛顧を頂きますようお願い申し上げます。

 

 

 

 

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「阪西家と梶木家」たび重なる縁戚関係、「御所坊」とも姻戚に!

2015年8月1日 更新

前回 梶木源次郎(森琴石実父)=阪西家の姉・妹が妻となった に続きます

 

 暑いですが くれぐれもご自愛くださいますようお祈り申しあげます

暑中見舞い 風鈴

 

安倉「阪西家」⁀有馬温泉「梶木家」
・・たび重なる縁戚関係
・・・有馬温泉「御所坊」ともご縁が!

 

阪西家と梶木家、最初の繋がり
・琴石 3歳:弘化3年3月15日、大阪の森猪平(善蔵)の養子となる
・琴石 3歳:〃 5月7日実母没す
・琴石 ?歳:実母の妹、実父梶木源次郎の後妻となる

■私共が現時点で知る限り、安倉の阪西家と有馬の梶木家との繋がりは、実父梶木源次郎の元へ、安倉の阪西家(分家)の娘が嫁いだのが始まりのようである。
■しかし、もっと古い時代から何らかの縁があったかも知れません。!

■6月14日、阪西家を訪問させて頂いた折り、阪西本家からの帰り道、1軒の家を通りかかった時「この家はやはり阪西という苗字で阪西家の分家です。御所坊から梶木家に養子に行った人がおり、その間に出来た子供の一人がこの阪西家と縁を結んだらしい、森琴石の作品もお持ちです。」・・・と、話して下さいました
(後日正確な関係をご紹介出来るかもしれません)

■有馬温泉「御所坊」の現当主の方は 御所坊主人 四郎兵衛ブログ, を公開しておられ
有馬玩具博物館、では 森琴石の『月世界旅行』を紹介して頂いております。

 

尚、有馬海潮音 というブログでは
『森琴石作品集』や、森琴石の実父「梶木源次郎」、実兄「梶木源之助」など梶木家の事を度々ご紹介して下さっています。現在 有馬海潮音 の主催者は誰か不明です。

有馬海潮音 さんのブログ
森琴石
六月六日 芒種 中の坊二代目、梶木源之助と東京向島有馬温泉
中の坊濫觴と初代「梶木源次郎」の事
天保の大飢饉と有馬(2)鍋屋多右衛門

※参考までにご森琴石の銅版画が紹介されている有馬温泉商店主のブログもご覧ください。
『プレてっぽう水』発見!日本初のビン詰めミネラルウォーターは有馬の炭酸水だった !


■森琴石の実家である、有馬温泉「中の坊」では森琴石の事を何一つ取り上げる事が無い(と思われる)だけに、御所の坊さんで取り上げて頂いた事は嬉しい事と思っていました。

■ますます複雑になる阪西家(本家、分家、他の分家)と梶木家、
実母の実家である安倉阪西家(分家)に、より正確な「阪西家と梶木家」との関係をお尋ねしたいと、現当主である阪西義隆 様に連絡させて頂きました。

■電話でお聞きした情報をメモをするのですが、混迷して意味不明な内容になっていきます。

■会話の終わりごろ「梶木家から本家に養子に行った阪西治三郎さんの生没年をご存知でしょうか?」とお尋ねしたところ、「ちょっと調べてみます」と、一旦お電話を切り、その後余り時間が経たない内にお返事を頂きました。

 

 そして  又  意外な展開に!

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく・・・・

 

 

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梶木源次郎(森琴石実父)=阪西家の姉・妹が妻となった

2015年7月20日 更新

 

6月18日更新「森琴石の実母=宝塚市安倉の名家の娘だった!

7月9日更新 森琴石次兄の養子先=宝塚市安倉の大地主だった!     に続きます

 

梶木源次郎(のち源治郎に)
森琴石の実父(森琴石紹介「生家と森家―森琴石実父 梶木源次郎」参照)
・・・・・・・・有馬温泉、炭酸水発見者
・・・・・・・・・・(日本のサイダー、生みの父)
    =有馬温泉「中ノ坊」創始者
     =小学校創設、灌漑土木事業(橋や道路建築)
・・・・・・・・・・有馬温泉物産品興隆に大貢献

 

安倉「阪西家(分家)」
・・姉(森琴石実母)亡きあと、妹が嫁ぐ

■2015年6月14日(日曜日)、阪西分家の大接室に通され、仲介して頂いた田中稔氏が間に立ちお互いに挨拶を交わしました。
●震災後、森琴石のご子孫が私たちを探しておられる事を(どなたからか)聞いていたので、連絡をしたいと思っていたが、方法が分からなかった。
(教育委員会に問い合わせていた事と思われます)

■事前のには下のような下知識を教えられていました。
1:「森琴石の実母」の出生の家である。
1:本家は森琴石次兄の養子先である。
1:他の阪西家も梶木家と縁があり、両家は姻戚関係を結んでいた。

■当日は、以下のように更に深まった内容となりました。
1:安倉は尼崎⇒伊丹⇒有馬 に通ずる街道に位置し、阪西家と梶木家は共に村長として村の指導的な家柄だった。
1:何らかのご縁があり、阪西家の娘が、梶木源治郎(源次郎)に嫁いだ。
1:嫁いだ娘が亡くなった後、妹が妻となった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、 衝撃的な事実を告げられました。

 

              ・・・・次回に続きます・・・・

 

 

 

 

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森琴石実母の生地(安倉 あくら)=聖徳太子ゆかりの地

2015年7月13日 更新

森琴石実母の生地(安倉 あくら)=聖徳太子ゆかりの地


地名の由来
・安鞍とも書く
・聖徳太子が西国巡遊の折、鞍を休めた地
・難波吉士(なにわの きし )胡床(あくら)の居住地か

前回前々回 では<森琴石の実母の生地>及び<森琴石次兄の養子先>は宝塚市安倉の旧家とご紹介しましたが、安倉(あくら)という地名は歴史的な由来があります。

●『宝塚の風土記 民話と伝説・地名の起こり』
・・・・(川端道治著/川瀬書店/昭和52年8月15日初版)

第246頁に
のような見出しがあります。

(四)大字・安倉(聖徳太子の所縁の地・難波吉士きし胡床あくらの居住地か)

●上記著書の内容を著作権上ご紹介出来ませんので、安倉(あくら)の地名の由来について似た情報がインターネットで紹介されていますので下にご紹介させて頂きます。
●難波吉士きし胡床あくらについては、説明が難しいので「難波吉士」という単語についてのみご紹介させて頂きます。

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安倉(あくら)   について

1:『摂津名所図会』 巻の六 より
河辺郡
安倉(あぐら)
池島・鳥島・出在家等安倉庄と云ふ。
伝へ云ふ、聖徳太子中山寺草創の時、根をと驪どめ、鞍を安ずる義によって安鞍と号す。今土俗安倉と書す。

2:兵庫県県民運動情報誌「ネットワーク」 より
第99号 阪神北<活動紹介>

安倉の地は、古来、伊丹と小浜を結ぶ街道筋沿いに形成され、農業を中心に発展してきた」と「コミュニティ安倉」のホームページや冊子 などの紹介にあります。
全国的に見ても貴重な高塚古墳や、聖徳太子ゆかりの大蓮寺や南中山寺・文殊院そして住吉神社など歴史的名所も多く(以下省略)・・・・・・。

3:宝塚歴史散歩 より

安倉は、中国自動車道宝塚インターの南に位置し、伊丹市に隣接する東西1キロ、南北2キロの地域です。 伝承によると聖徳太子がこの地域を訪れたとき、黒駒(黒い毛並みの馬)の鞍(くら)をはずして休んだことから「安鞍」とされ、それが転じて地名が安倉になったと伝えられています。
この付近は縄文時代の石鏃(せきぞく)(やじり)が出土、古墳時代前期(4世紀後半)の安倉高塚古墳が発掘されたことから、古くから開かれた土地であったことがうかがえます。

4:任意団体エコグループ・武庫川 より

第89回  武庫川エコハイク(2014.9.13 )
馬街道・清荒神から伊丹昆陽までを歩く 

安倉 安倉(あくら)は安鞍といわれ、聖徳太子が仏教興隆のためこの地を馬に乗り回られた折、乗馬が足を止め動かなくなりそこから金鶏が飛び立ったという。
太子はここを霊所として馬の鞍を休められたという。
この場所に鶏塚を置き一寺を興されたという。

 

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難波吉士(なにわの きし)   について

1:デジタル版 日本人名辞典 より
吉士雄成 きしの-おなり
飛鳥時代の遣隋使。推古天皇16年(608年)、小野妹子(おののいもこ)の帰国に同行してきた隋の使者 裴世清(はい-せいせい)らを筑紫にむかえる。

同年隋使をおくるため遣隋小使として大使妹子とともに渡海した。
氏は難波(なにわの)吉士とも。

2:アドレスのみのサイト より
難波吉士一族  誠に不思議な氏族である。
吉士とは朝鮮系の称であって、氏としても姓としても用いられている。従って、朝鮮渡来氏族であることはほぼ間違いない。
姓氏録の摂津皇別にも「吉志、難波忌寸同祖、大彦命之後也」とある。

難波に本拠を持ち、朝鮮外交を一手に引き受けた氏族である。

 

 

 

 

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森琴石次兄の養子先=宝塚市安倉の大地主だった!

2015年7月9日 更新

 

6月18日更新の「森琴石の実母=宝塚市安倉の名家の娘だった」 に続きます

●阪西家訪問より1カ月経ってしまいました。
●その間体調不良や身内の葬儀等が重なりました。
●森琴石の実母の生地等については、順を追ってご紹介して行きたいと思います。

2015年6月12
兵庫県宝塚市
・・阪西家(分家)訪問

■6月14日(日曜日)、2日前に約束を交わした阪西家訪問の当日となりました。
■思いもよらぬ展開に、私共夫婦は興奮を抑えきれませんでした。
■当日阪西家分家では、阪西義隆・節子ご夫妻、阪西家本家の奥様、仲介して頂いた田中稔氏が、私共夫婦を歓待してお迎えして下さいました。
■阪西家(分家)は、江戸末期の頃本家より分家したそうですが、分家も又庄屋職を務めておられたのだそうです。
■本家、分家共、川辺郡安倉村(現宝塚市安倉)の由緒あるお家柄なのです。
■阪西家分家ご紹介に先んじて「阪西家本家」の事を触れておく必要があります。

 

阪西家 本家=宝塚市安倉の旧家
・・・・・・・・・・・  =代々庄屋職
・・・・・・・・・・・  =安倉の大地主
・・・・・・・・・・・  森琴石次兄「梶木治三郎」の養子先
・・・・・・・・・・・・・

■当日阪西家では本家の奥様もご一緒にお迎えして下さいました。
■阪西本家は、川辺郡安倉村での中心的な存在で、代々庄屋職を務め、現在に至るまで地域の大地主として地域経営に貢献されておられます。
■森琴石紹介「生家と森家―森琴石実父 梶木源次郎」の後方
<梶木家略系譜:梶木源次郎の次男>として
【(源次郎二男)治三郎=川辺郡安倉(現宝塚市)の※庄屋家の養子となる】
ご紹介しています。
■この情報は、森琴石調査開始当時、現有馬グランドホテル代表取締役社長梶木雅夫氏との会話(電話)を書き留めていたものです。
■その後、宝塚市教育委員会に問い合わせ、宝塚市に於ける「阪西治三郎氏の存在」をお尋ねしたところ
「宝塚市史に庄屋をしていたという記録があります」と、返答を頂きましたので、森琴石HPに記述した次第です。
■当時から10数年経った現在、森琴石の<次兄の養子先>の方にお会い出来た事実に改めて感激感謝しています。

 

・・・つづく・・・

 

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少しお休みさせて頂きます

2015年6月29日 更新

前回ご紹介しました宝塚市の旧家阪西家訪問時、少々風邪気味でしたが、
その後本格的に風邪を引いてしまいました。
つい最近身内の不幸もあり、現在森琴石調査及び森琴石HPに本腰を入れる事が出来ません。
心身共に回復するまで、今しばらくお休みさせて頂きたいと存じます。

 

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